3月21日終業式での学校長式辞
20.03.21
令和元年度 大阪成蹊女子高等学校 第3学期終業式式辞
平成31年と令和元年にまたがった本年度も終わろうとしています。
そして、4月の令和2年度新学期には、皆さんは2年生、3年生となり、たくさんの新入生が入ってきます。
新しく設置した音楽コースも2クラスとなり、昨年以上にたくさんの1年生が入学してきます。
さらに大阪成蹊女子高校の発展は止まることなく、来年令和3年度には、普通科で6番目となる看護医療系進学コースが本校に加わります。
これで本校は、美術科と合わせて、2学科7コース制となります。
さて、この4月には新しい女性の校長先生が赴任されます。
昨年の2月から短大学長と高校の校長を兼務していましたが、大阪府から1年間だけの兼任許可であったので、新しい校長が来られて、私は短大学長に専念します。
この間、校長として十分な職務は果たせなかったかもしれませんが、忙しい中でも多くの生徒の皆さんからたくさんの元気をもらいました。
最後となった、海外修学旅行は生涯忘れられない楽しい行事になりました。ありがとう。
今日は、わたしにとって高校での最後のお話となります。
最後に、是非とも知ってもらいたい木村浩子さんの話をしたいと思います。
木村浩子さんの絵を見てください。
どうでしょう。この絵は、見ている人の気持ちを和ませると思いませんか。
さて、この絵を木村さんは、どのようにして描いたでしょうか。
普通は手で絵を描きますが、木村さんは小さい頃に重い脳性麻痺にかかり、体が動かない状態の中、唯一動く左足指だけで描いた絵なのです。
木村さんの生涯について、お話を聞いてください。
木村さんは、体が不自由なだけではなく、その生き様が想像を超える過酷なものでした。
父は戦死、大好きな母は13歳で病死、祖母に引き取られます。
小さな畑で暮らす祖母との2人だけの生活は裕福であるはずもなく、ただ生きているだけで、困窮を極めたそうです。
彼女には、荒れ果てた小さな納戸の四畳半に転がっているだけの生活しかありませんでした。
夏はヤブ蚊にかまれ、冬は薄っぺらの布団の中で、「寒い、寒い」と泣くだけの生活でした。
生きている意味を感じられず、死を選ぼうと動かぬ体を一寸刻みでにじりながら納屋の農薬を探しました。
農薬を口にすると、焼けるような胸苦しさの中で、しだいに意識が薄れていったそうです。
すると、突然夢の中に、大好きな母が現れ、笑顔で「生きて、生きて」と言われた気がしたというのです。
気づくと病院のベッド。これを転機に生きることに執念を燃やすことができたそうです。
これまでの寝ているだけの生活から、動かない体でも立ち上がろうとするのです。
歩くことに挑戦し、1年半かかって、十数メートル歩けるようになりました。
そして、車椅子に乗ることもできたそうです。
18歳になったとき、同じ年頃の女性がピンクのワンピースに赤いハイヒールをはいて、さっそうと歩いてくる姿を目にしたのです。
自分は、転んで破れ、転んでは破れた黒ズボンに、黒く汚れたズック。
一瞬にして、やるせない思い、苦い敗北感が心に突き刺さります。
高齢の祖母から、「浩子泣かないで、お前には、お前の生き方があるんだよ。」の言葉で、独立する決心をします。
知人を訪ね、東京で独立しようとしました。
しかし、山口から東京までは、気が遠くなるほど遠い。
新幹線のない時代、安く行くためには、汽車で3日かかるのです。
汽車の中では体が動かないため、便所には立てず、三日三晩飲まず食わずの旅をしたのです。
上京して、これまで習いたくても習えなかった、編み物、点字、生け花、俳句や短歌を左足指で学びました。
文字や絵を左足だけでできるよう、並々ならぬ努力をしたそうです。
木村浩子さんは、このように書いておられます。
「あれこれ迷った半生 傷だらけの私だが、この道 ひとすじに歩もう
道は険しい、山ははるかに遠く高い
しかし、越えなければならぬ峠なら、険しくても越えなければならぬ。
よちよち歩きでも。」
現在、木村さんは沖縄で民宿を経営されながら、絵、書、短歌の芸術家として活躍されています。
全身麻痺で、左足指だけの芸術家は、すべての人々に生きることの大切さ、そして生きるための努力の大切さを伝えておられます。
校長として最後のメッセージになります。
「人間やろうと思えば何でもできる。
努力すれば何でもできる。自分の可能性に挑戦してください。」
皆さんの努力を大いに期待し、大阪成蹊女子高校で、皆さんが立派に成長されることを信じています。
さようなら。そして、ありがとう。